< 蛇皮線 −左近と幸村− >
「左近殿、よろしいですか?」
彼の執務室にやってきたのは、内面も外面も赤がよく似合う男、幸村。
今は平服なので、どこにでもいる純朴な青年にしか見えない。
この顔を見て、戦場では羅刹のごときと、誰が想像できるだろう。
昔はあんなに小さかったのに……などと、少しだけ回想してしまった。
「仕事は終わってるから、適当に座ってくれ」
公の場を外れると、どうしても荒い口調になってしまう。
基本的には年上でも下でも慇懃無礼に近い丁寧語なのだが、
子供のころを知っているというのは厄介なものだ。
公式の場では双方違和感を噛みしめながらの会話で、その後酒を酌みかわしながら、
面倒ですねぇと肩をすくめるのが常となっている。
顎で示すと、律儀に失礼しますと述べてから腰を下ろした。
胡座の自分に対し、きちんと正座するあたりが彼らしい。
「あの、質問があるのですが」
「質問?」
軍略か兵法か、それにしては手に書物は見あたらない。
なにか問題でも起きたのかと、心持ち身を乗りだした。
主の友人であり知己となれば、手をかすのはやぶさかではない。
「左近殿の蛇皮線は……下手ではなかったと記憶しているのですが」
「……あ?」
真面目な顔で言われ、気の抜けた声が出る。
想像と違ったため、意味をつかめなかった。
幸村は不思議そうな左近を見ると、慌てて言葉を足していく。
「三成殿が……左近殿の蛇皮線が下手だと仰っていて。
ですが私の記憶がたしかなら、とてもお上手だったはず……」
武田の領地にいたころ、まだ幼い彼に、時折奏でてみせた。
ついでに吟じたりもしてやると、少年は嬉しそうに聴いていたものだった。
時にはたどたどしい笛の音を合わせてくることもあり、懸命になる姿が微笑ましくて。
段々彼の言いたいことが見えてきて、左近は後ろ手で頭を軽く掻いた。
「……で? 幸村はなんて答えたんだ?」
「いえ、なにも……その、答える暇がなくて」
困ったような調子で、少し恥ずかしそうにする。
「ま、ばれなかったのは幸いか……」
この場合、彼の性格が幸いしたというか、主の短気に救われたというか。
ちらりと部屋の隅に置かれている蛇皮線に目をやると、幸村もつられた。
彼の記憶にあるものと同じ、なかなかの名工につくらせた品は、
丁寧に手入れをしているのでさほど褪せた様子もない。
思い出のままの姿に、幸村は少し安堵した笑みを浮かべた。
武田を失った彼にとって、当時から変わらぬものがあるというのは、心の平穏に繋がるのだろう。
「では、やはり下手ではないのですね」
練習不足で腕が落ちることはあれど、巧みに弾いていた者が、
騒音で仕事ができなくなるほどの技量に落ちるはずがない。
「下手さ、殿の前ではね」
否定して、立ちあがると楽器を手にしてもどってくる。
軽く弦を弾くだけで、なにか奏でようとはしない。
理由を知りたそうな幸村に、笑って口を開いた。
「お前さんも知ってのとおり、殿は口で休めと言ったって聞きゃしない。
だったら仕事を続けられない状態にしてやろうと思ってな。
それで思いついたのがこれだったってわけさ」
意図的におかしく弾くことはなかなか難しい。
わざと音を外したり、力加減を間違えてみたり。
手癖で普通に弾こうとするのをおさえるのはなかなか難儀なことだったので、
おかしな旋律を頭に叩きこんで、そのとおり奏でることにした。
結果、首尾は上々と言えた。
気むずかしい顔をしていた主は煩いと文句を言いながらも休みを入れ、
なぜこんなにおかしな音になるんだと笑いもしたのだ。
楽しそうに話す左近に、幸村も嬉しそうな顔をしたが、ちょっと残念そうにつけたした。
「では、当分左近殿の素晴らしい演奏は聴けないのですね」
三成は彼の腕を下手だと信じている。
実は偽りだと知れたら、最終的には納得するだろうが、
それまでは大いに不機嫌になることは間違いない。
万一知られた場合、黙っていた幸村も同罪になるだろう。
お互い顔を見合わせ、苦笑をこぼした。
「まあ、機会はあるさ」
たとえば国元と大坂城とで別れた時だとか、市井を見に行っている間とか。
あまり下手に弾いていてはもとの音を忘れかねないので、
時折の練習は前にもまして必要になっているのだし。
「殿にはさっさと上達しろと言われてるがねぇ……」
三成が無理をしなくなれば、すぐにでも左近はもとの腕を披露できるが、
きっとその日はこないだろう。
それが石田三成というひとなのだ。
「ってことで、共犯者、口裏合わせを頼むぜ?」
片目をつぶって茶目気たっぷりに言う彼に、
幸村は三成殿の身体のためなら勿論、とうけおうのだった。
> この二人は知人なのでほのぼのと……
> きっとこのあと兼続混ぜて悪巧み(笑
> 幸村は危ういところがある気がするので、
> 武田時代の数少ない知りあいである左近に懐いているといいなぁと。(09.06.09)