< 蒼い人 >
からんと書簡の乾いた音が響く。
己のいた世界では紙も大分一般的だが、この世界では簡のほうが多い。
次の作戦用のそれもまた竹でできていたため、自分の気持ちを相反して澄んだ音を立てた。
口をついた長いそれは、嘆息にも似ていた。
全身を覆う倦怠感は、疲労も勿論あるが、それ以外……精神的なものが大きい。
「敵を欺くにはまず味方から」とも言う。
説明する暇もなかったため、友人らにも告げぬまま、遠呂智陣営に所属してもうずいぶんたつ。
憎まれ役は慣れているが、だから平気というわけでもなく。
時折出会うかつての仲間から、いわくいいがたい目で見つめられると、心が暗くうち沈んでしまう。
今度の作戦は、反対勢力の鎮圧。
特にこれという猛将がいるのではなく、民衆が主体となっているとのこと。
あまり民に負担を強いる作戦は躊躇われたが、妲己らに怪しまれては元も子もない。
もし苦悩する様を見られれば、残酷な笑みで喜ぶことはわかっているので、
戦時は平常心を総動員しているが、計画段階で吐息をつくことは止められない。
ぱらぱらと書簡を手繰りながら、考えるのは次の作戦ではなく、監視を命じられた男のこと。
父であり国の柱である男を失い、表面上は同盟、事実上の従属となった魏の国。
統率のとれない状態をなんとか繋いでいるのは、覇王の息子、曹丕の存在ただひとつ。
年若い君主は細かい説明をせず、積極的なほどに残党狩りに出ている。
肝心な場面で呉の者を逃がすなどしてはいるが、大局を見られぬ者には、
彼の行動は遠呂智への従順と感じられてしまうだろう。
彼も、己のように見えぬところで悩んでいるのだろうか?
……答えは否と思えた。
自分は上に立つ器ではない。
誰かを主として冠し、そのもとで働くことが相応しいと思っている。
卑下しているのではなく、己の力量を客観的に判断してのことだ。
だが、彼は違う。
親の跡をついで、末は一国の主として立たねばならない。
事実、彼は立派にその責務を果たした。これは歴史書が物語っている。
悩みが一切ないとは言えないが、自分のように感情の整理が追いつかないことはないだろう。
『そんな未来の大人物を、自分が監視とはな……』
この世界でしかありえないこととは言え、ずいぶん大層なことだと唇を持ちあげた。
親の力だけではない、自身のもの。
それがたしかにあることは、何度か共闘して気づいている。
己とそう年も違わないはずだが、深遠を見通すような眼差しは微動だにしない。
妲己相手に物怖じせず、迎合せず、しかし上手に我を通している。
彼が読んでいるであろう先は、間違いなく遠呂智への反旗。
その点では、彼と自分の目的は同じなのだ。
だが、それを表だって言葉にはできないから、求められるのは相手の意を汲む能力。
きっと自分がいてもいなくても、彼の行動は変わらない。
だが、こちらが協力すれば、もっと巧くことが運べることは想像に難くない。
だから、今ここで悩んでいる暇はない。
立ち止まる余裕があるならば、次の手を考えるほうが余程建設的だ。
ようやく思考を切りかえた三成は、やれやれと書簡を手にする。
「文帝のようには、いかんな」
「――なんの話だ?」
一人きりのはずの部屋に、響いた低い声。
慌てて顔を上げれば、そこには思い描いていた姿があった。
蒼い衣装を身にまとい、冷ややかな美貌をたたえて。
「勝手に入ったぞ。気配に気づかぬお前が悪い」
常から問答が多いので、文句を言うと思ったのか、そう言い置いて近くの席に腰かけた。
だが、三成のほうには嫌味を飛ばす余裕はない。
今まさに想像していたところに現れたせいで、幻がそのまま形になったような、
そんな錯覚をふり払うのに必死だった。
常にない無言のせいか、曹丕は少し怪訝そうにこちらを見やる。
「いや、……なんでもない」
急いで首をふる姿は、自分で言うのもなんだがあからさまで。
しかし未来のことを当人に話すのは、禁忌という意識がある。
誰に咎められたわけではないが、これ以上の会話は続けたくなかった。
「お前の国には、それほど優れた王がいたのか?」
しかしそんな胸中を知らない曹丕のほうは遠慮なく訪ねてくる。
いつも冷静な彼にしては珍しく、その調子はやや熱を持っていた。
思わず顔を上げると、表情はいつもの端正なそれで。
男のくせにずいぶん睫が長いとふと気づいた、……口にすればお前もだと返されるだろうが。
「優れた……と、なぜわかる?」
自分が呟いたのは、文帝、ただそれだけ。
時代もなにもにおわせてはいない。
不思議そうな三成に、曹丕は目の端に呆れを滲ませる。
そんなことも知らないのか、の代わりらしい。
「それは亡くなった王に送られる諡だ。
生前の行いによってその名は上から神、聖、賢……となる。
文はその次、四番目に徳の高い名だ」
普段より若干真剣な顔で教えてくれる。
それは彼自身、その諡を真剣にとらえていることに他ならない。
「つまり、その名が送られるというのは、大変名誉なことなんだな?」
「当たり前だ」
空から雨が降るくらい、理なのだと言わんばかりの勢いで頷かれる。
それが誰かはわからなくても、死してその名を持つというだけで、
大人物であったことは間違いないと判じている。
それほど厳然とした決まりがあるのだろう。
帝など有名無実のこちらにとっては、あまりぴんとこない話だが、それはこの際置いておく。
無言のままの三成に、曹丕は彼の持つ書簡を見ながら呟いた。
「私も、文帝とはいかなくとも、よい諡をもらえるような統治をせねばな」
深く感じられる、決然とした意思。
己の国の何倍も大きく、いくつもの民族が存在する大地を、それでも包もうという心意気。
他の誰かであれば、無謀と笑うかもしれない。
「……曹丕なら、可能だろう」
だが、口をついて出たのはぽつりとした囁き。
音にするつもりはなかったが、気づいた時には喉を通っていた。
しまったと胸中で舌打ちしたが、顔に出すことは防げた。
代わりにすっかり冷めた茶を一口。
曹丕はそんな三成を眺めてから、
「おだててもなにも出んぞ」
「客観的な判断だ」
あくまで無表情のまま、喜びもなにもしない彼に、目を細めて睨むように返す。
少しは反応があってもいいものを、と癪に障ったが、口にすれば駄々のようで憚られた。
手元の書簡に目を落とした彼は、そのため一瞬の曹丕の笑みを見ることはなかった。
「……せいぜい期待に背かんようにしてやろう」
口調はあくまで尊大に、けれど悪戯をした時のように表情を歪めて。
一瞬後にはもとにもどった曹丕は、次の作戦を考えるべく、同じように書簡に目をやった。
> 奇妙な友情がはぐくまれていく段階。
> まるで片思いのように見えるのは、私の目がおかしいのでしょう。
> でもたまには意思の疎通をしてもいいと思います……
> か、書きにくい(汗(09.05.01)