＜ 隠れ鬼 ＞
「誾千代、どこだい？……誾千代ー」
高い女性の呼び声に、男は首を巡らせた。
廊下を足音高く行くのは、時の太閤の妻、ねね。
忍びでもある彼女は、いつもひっそりと行くものだが、珍しいこともあるものだ。
一体なにごとかと眺めやると、ちょうど目があった。
その手には何本かの反物を抱え込んでいる。
どれも鮮やかなそれは、どちらかというと若向きで、ねねの雰囲気とは合わない。
……なんとなく予想がついてきた。
「ねぇ島津、誾千代を見なかったかい？」
「お嬢？……はて」
互いに近づき、端近で顔を合わせて。
問いかけに軽く首をひねり記憶をたどった。
朝の鍛錬には、いたことを覚えている。
彼女の存在は目立つし、いつも自分に稽古を挑んでくるからだ。
今日も同じように受けて立った。
すっかり朝の名物と化していて、最近では賭をする連中もいる。
たいしたものを賭けるわけではないので放っているのだが。
それから自分は兵の修練につきあっていたから、あとのことは知らない。
内務がすめばあとは国元の仕事などで、不在になることは珍しくないし、問題もない。
ねねはふぅ、と残念そうに息をつく。
「今度あの人が宴を開くでしょう？
だからその時に着物を誂えてやろうと思ったのだけど……」
成程逃げられたのか、と言葉にせず呟く。
ねねにとって夫の臣下、特に年若い者たちは、子供のような存在らしい。
それは彼女自身に子がいないためもあるだろうが、甲斐甲斐しい彼女の気遣いは、概ね好評を得ている。
男のほうが年上だが、彼も彼女のことを疎む気持ちはない。
しかし世の母親がそうであるように、時に押しが強すぎる行動に、困惑している者もいる。
たとえば石田光成であったり、姿をくらませた誾千代であったり。
「あの子、いつも男装ばかりだから……
でも絶対似合うと思うのよね」
その姿を想像したのか、ねねは嬉しそうに微笑む。
否定はしないが、あの誾千代がそれを受けるかと問われれば、激しく難しいと思う。
彼女は意固地なほどに、女性として扱われることを嫌っている。
その由来がなにかは判然としないが、ねねにわからない感情であることは間違いない。
それはどちらが悪いわけでもないのだが。
ねねは気づいていないのか、意図的に無視しているのか。……性格的に後者はない気がした。
だからこそ誾千代も、断りづらくて逃亡したのだろうと見当づける。
善意しかない、というのも、なかなか対処しづらいものだ。
「島津も誾千代を見つけたら、あたしのところに来るよう言っておくれね」
ねねはそう言うと、男の返事を待たず屋敷の奥へもどっていった。
あんなに名前を呼びながら歩き回っていては、まず会えぬだろうと苦笑いしつつ、男は庭を歩いていく。
春ともなれば梅や桜が咲き乱れるだろうが、今の季節はまだ堅い蕾があるばかり。
色の少ない景色の中、男はぶらぶらと城の裏手にむかっていく。
流石に太閤の城だけあり、裏手であろうと整備は行きとどいていた。
だが、見る者のいない植物は、どこか精彩を欠いている。
その中の一つ、大きな柳の下に人影を見つけ、男は眉を上げた。
見つけようと考えていたわけではないが、よくまあ偶然もあるものだ。
「お嬢、おねね様が探しておったぞ」
「……知っている」
根本にすわった彼女は、こちらに一瞥もくれない。
膝を抱えた様子は幼子のようで。
顔も伏せられており、表情は伺えない。
「あれだけ大きな声なら、ここからでもわかる」
くぐもった声で呟かれ、つい笑ってしまった。
たしかに庭にいた自分にも聞こえたのだ。
廊下を歩きながら呼んでいれば、奥まで響くだろう。
「違いないな」
それが奥方のよいところでもあるのだろうが。
くつくつと笑う男に、誾千代はわずかに顔を上げ、横目で睨んだ。
ふてくされた子供のように。
「教えたければ勝手にしろ」
そうして顔は再び膝の間に埋もれた。返答を聞くつもりではなく、告げておきたいだけだったらしい。
さて、どうしたものかと男は考える。
ねねに伝えるつもりはもとよりないが、放っておくのもどことなく躊躇われる。
しかし、いればいたで、日々仇敵と叫ばれているのだから喜ばれはしないだろう。
要するになにをしても事態は好転しそうにない。
「……とりあえず、奥方殿に知らせはせん」
それならば己の思うままに、と少し離れた場所に腰を落とす。
気配で察していないはずはないが、なんの反応もなかった。
尖った気配が感じられないので、思ったより拒絶されていないらしい。
逆を言えば、その元気もないということなのだが。
よく剪定された木々は、暖かい日差しを十分地上にとどけてくれる。
まだ肌寒い季節だが、こうしていると春は近いのだと実感する。
酒がないのが惜しいところだと苦笑した。残念ながら袂に隠しておいた分は飲んでしまっている。
「しかし……お嬢、奥方殿に諦めてもらうのは、相当骨が折れると思うぞ」
油断すると眠りそうなので、嫌がられることを承知で言葉を投げかける。
彼女はゆるゆると、普段とは別人のように緩慢な動作で頭をあげた。
半ばすわった目は、眠気でも苛立ちでもなく、諦観を当てはめるのが一番近い。
「わかっている。……それは、よく」
重苦しいため息を最後に加えて。
ねねの粘り強さは天下一と評してもいい。
豊臣に在籍する女性の将は当たり前だが、少ない。
その誰もが女性らしい身なりを滅多にしないから、なおさら奮起しているのだろう。
すなおに一度女性用の着物を身につければすむ問題だが、彼女が頑なに拒んでいるのがわかる以上、提案しても無意味だろう。
「貴様からすれば、駄々をこねているように映るだろうな」
突然まっすぐ視線がぶつかり、男にしては珍しく驚いた。
若さと気性ゆえに鮮烈な、引きこまれずにはいられない、まさに雷を思わせる輝き。
自分も失ったつもりはないが、それでもかなわないと感じるもの。
それはどんな服装をしていても変わることはない。
「だが……私は、今は、女になるつもりはない」
きっぱりと宣言する様子には、微塵の迷いもない。
揺るぎない決心が伺える表情は、子供じみているとは笑えない。
「……父の跡を継ぎ、乱世を生き抜くまでは、か？」
太閤の統治となったが、反乱分子はいまだそこかしこでくすぶっている。
大規模な乱が起きないよう、秀吉は様々な政策を打ちだし、逆らうことなど無意味だと暗に告げている。
だがそれは、太平の世がきたことと同一ではない。
男にとって平穏無事など忌むべきものだが、目の前の少女がそうでないことは知っている。
己の一族が奪った家を再興させたいと切望していることも。
「……そうだな、そう願掛けをしているとでも言えば、おねね様も納得するな」
ちょうどいい、と誾千代が呟いた。……ということは理由は別にあるらしい。
けれどうっすら笑んだ彼女の表情は、男にそれ以上の追求を許さない。
女ではないと主張しながら、時折窺わせる所作は女性のものに相違なく。
気づかれぬよう苦心しつつ、目を奪われることも少なくない。
誾千代はすっくと立ちあがると、着衣についた草を払い落とした。
「鬼に見つかったのに、いつまでも隠れいるわけにはいかんな。
ではな、島津」
妙にさばさば言い放つと、彼女は返事も待たずに歩いていく。
たしかに自分は鬼と恐れられているので、その比喩は妥当なところだが。
唐突な一連の行動に男は思いきり遅れをとり、立ちあがった時には誾千代の姿はどこにもなかった。
「やれやれ……お嬢の考えていることは時折わからん」
男女の違いか年の違いか、後者はあまり歓迎できないが……とぼやく。
戦の時には口にせずとも呼吸が合うが、平時はそうもいかない。
わかったことと言えば、彼女が自発的に着物を着るまでは、誰も誾千代の着飾った姿を見られない、ということだけ。
「さて、その理由を肴にするも一興か」
所詮博打打ちの酒飲みにとって、世のすべてはそのどちらかの理由になるのだ。
にやりと笑うと、男は誾千代とは反対方向、裏門へむけて歩きだした。
＞ ものすごく中途半端な感じがしますが……
＞ 最初はもう少しべつの展開を考えていたのですが、
＞ 書きはじめたらこうなりました。
＞ ……まあ、いつものことですかね。（2011.04.07）