< 鬼の火 >
酒が切れた、ただそれだけだった。
だから蔵に行くかと腰を上げて、存外美しい三日月に気づいて。
悪くないと思いながら、わざと遠回りして歩いていた。
それは偶然としか言えないこと。
しかし普段から切らさぬよう補充されているはずの酒瓶が、
この時にかぎってそうでなかったのはなにかの采配なのか。
歌に詠われるのは満月ばかりだが、細い月はそれはそれで儚く美しく、
見える位置を歩こうと結果庭を通ったのはなにかの必然か。
真実がわかるはずもないが、とにかく彼は真夜中にそぞろ歩いていた。
昼は多い家人の姿も今はない。
薄明かりのついた部屋もあるにはあるが、外に出てくる酔狂はいないらしい。
見とがめられて困るわけでもないのだが、と胸中で呟きつつ、
別段気配を隠す必要も感じなかったので、草を踏み分け進んでいった。
だが、先の光景に思わず歩みが止まり息が潜められる。
自然に身についた動きで気配を消して、注意深く目をすがめた。
視線の先にはいくつもの火がともっていた。
と言ってもそれは松明だとか、そういった人工のものではない。
風もないのにゆらめく下には、手燭などついていない。
またその光は奇妙に赤く、そして時折青くさえ輝く。
炎の大きさも瞬時に変化し、だれかになにかを訴えるようにちらちらとまたたいてもみせる。
それが尋常なものである証は、どこを探してもひとつもなかった。
そんな明かりに照らされた人物を確認すると、男は即座に動きだしていた。
飛びだすように現れても、その人影は身じろぎひとつしない。
彼が近づいても火は消えることもなく、彼女のもとでゆらゆら揺らめいていた。
「……だれだ?」
ぼんやりとした声は平素と違ってたよりない。
どこか夢心地のようにも見受けられた。
己に対して誰何をとなえるなど、あるはずもなく、異常事態を嫌でも認識する。
まといつく炎は、近づいても火傷するような熱は感じられず、どころかひんやりとさえした。
攻撃のつもりなのか、腕に巻きつこうとするが、子供に引かれた程度の力もない。
「……お嬢、なんだ、これは」
唸るような声で問うと、彼女はついと手を伸ばし、炎のひとつを絡めた。
青白く輝く細い腕は、当たり前だが女人のそれで、けれどいつもよりおぼつかない。
「しらないのか……? 鬼火だ」
「名称を聞いたのではない」
むっつりと返答すると、うすい笑みが返ってきた。
なんとも言えぬ不快感に、寄せた眉がさらに厳しくなる。
こんな彼女は、知らない。
いや勿論脆いところがない人間などいない。
誰もいない場所で密かに泣くだとかは、男でも女でも経験するだろう。
だが今のこれは、そういった弱気からのものではない。
大体そうだとしたら、彼にそれを見せるはずがないのだ。
「よばれたんだ」
歌うような調子で彼女は言う。
欠けた月に似たかたちに唇を歪ませて。
「これは、ちちうえや、死んでいった家臣たち」
いとおしげに炎を眺めれば、応えるように火が揺れる。
「呼んで、いうんだ。さみしい、はやく無念を晴らせと……」
目の中に写る炎、しかし彼女自身の意思は見いだせない。
眼前にその「怨敵」がいるというのに、
腰の刀は飾りではないのに、存在を忘れてしまっているのか手も出ない。
どう考えても、まともではない。
「……お嬢、儂が誰かわかっておるか?」
一歩踏みだして訊ねるが、彼女は鬼火を身にまとったまま。
返答しようと口を開いてみたものの、なんの音も出ることはなかった。
男はそのまま手を伸ばし、あたりを舞う鬼火をその大きな手で捕まえる。
火はするりと抜けようとするが、腹に力をこめ意識を集中させ、それを許さない。
あっという間に鬼火はその手に集められ、
ちょうど手に携えていた酒の瓶に放りこまれると、そのまま詮をする。
中からぞっとする冷気が感じられたが、男はふん、と鼻で笑った。
「儂は鬼、鬼島津。
その儂がたかが惑い火に負けるものか!」
大喝すれば、瓶の中は途端におとなしくなる。
それから男は、いまだぼんやりと立ちつくす彼女の肩をつかんだ。
じっと目を見据え、大きくはないが響く声で、頭の奥までとどくように。
「お嬢! 目を覚ませ!」
けれど濁った色はそのままで、変化のきざしもない。
肩をゆさぶりかけて、はたと気づいてもう一度、
「……ァ千代!」
名を呼びかければ、覚醒したかのように目に光がもどる。
しかし次の瞬間目は閉じられ、身体もがくりとくずおれた。
慌てて支え、息をしていることを確認して安堵する。
「まったく……何をしているのやら」
無念で散った魂など、今の世の中にはごまんといる。
今閉じこめたあれらは、そんな中のいくつかだろう。
断じて、彼女の親や臣下ではない。
だとすればとり憑く相手は彼女ではなく己であるはずだ。
それすら気づけずとりこまれたとは、余程気持ちに隙があったのだろう。
若干情けないと嘆息するが、まだ年若い少女なのだからそれもしかたないとも思う。
他ならぬ己のせいもあり、彼女はその年齢も性別も、捨てている状態。
だがだからと言って脆いところがなくなったわけではなく、
きっと普段殺している分、瓦解すればこのようになるのだ。
「まあ、儂がおるかぎりは、鬼なぞいくらでも打ち払うがな」
なぜと言って、自分以外の鬼は彼女に要らないからだ。
乱れた髪の毛をそっと払うと、あどけないほどの顔が覗く。
覚えず穏やかな笑みが浮かび、そんな自身に軽く驚いた。
……この様子なら、うまく部屋にもどせれば、目覚めた時には忘れているだろう。
覚えていればよりによって自分にたすけられたと、恩と仇との間で悩み、
己の不甲斐なさに当分立ち直れなくなるに違いない。
その心の亀裂を狙われれば、今回のように低級なモノならともかく、
隠しきれない大事になるかもしれない。
彼女とのやりとりを楽しみ、戦場での共闘に愉悦を見ている男としては、
その事態はなんとしても避けたいところで。
さてどうやって寝所まで運んだものかと、苦笑いで首をひねるのだった。
> 鬼……鬼……と考えていたらそういえば鬼火、と。
> 島津は鬼火程度でびくともしないだろう、と考えて。
> 陰陽師ではないので気合い勝負になってますが……
> でも霊との戦いって気の持ちようってこともあるみたいですし。
> いえ、私は霊感ないですけど。
> ちなみに、私の書く島津は肝心な時しか名前を呼びません。(2010.5.11)