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 その夜は見事な満月だった。

 雲一つない空に、星々がところ狭しときらめいている。
「降ってくるような」という言葉を、誰もがありきたりだと苦笑しつつも呟かずにはおれない、それくらいの星空。
 庭では盛りを迎えた梅の枝が伸び、自然の絵画を形成していた。

 こんな絶好の日を逃す道理はないと、城では月見の宴が催された。
 京の貴族に憧れる太閤は、しばしばそれを模した席を設ける。
 甘い菓子や、京都らしい趣向を凝らした食事、緩やかな旋律の笛……
 しかし家臣も己も歌集を暗記しているわけでも、蹴鞠ができるでもない。
 体裁は整えても、途中から普段どおりの無礼講になるのが常だった。
 出席は必ずでもないし、出入りも自由なので、ァ千代は挨拶と何杯かにつきあっただけで退出した。
 あまり酒は強くないし、一晩続くことはもう知っている。
 いつまでもいれば、あとで大変な目にあうのは自分自身だ。

 履物を探して、そのまま庭に降りたつ。
 いくらか酒の入った身体に、ひんやりした空気が気持ちいい。
 何度か深呼吸をして酒を抜きがてら、歩みを進めていく。

 酒宴の席からでは、景色がわからない。
 一応、庭に面したほうは大きく開かれているが、煌々とした明かりが、闇を追いやってしまっている。
 光が眩しすぎれば、星はそれにかき消される。
 そのためか、それとも景色より酒なのか、残っている者は外に見むきもしない。

 だから篝火だけを頼りにして、ァ千代は梅の木に近づく。
 たしかここには池があったはずだ。
 船遊びもできるようになっているので、深さは相当あるらしい。
 うっかり滑ってはたまらない。足もとに注意して慎重に進んだ。

 だから、前方の気配を悟るのが遅くなった。

「お嬢も月見か」

 黒い世界を縫って低い響きが耳にとどく。
 慌てて顔をあげれば、灯明と月にうっすらと照らされた男の姿があった。
 己が怨敵と呼ぶ相手だと理解して、思わず眉を寄せる。

 そういえばこの酒好きにしては珍しく、早々に姿が見えなくなっていた。
 河岸を変えたか、家臣や知人と博打でも打っているのだろうと、半ば呆れながら思っていたのだが。

 まさか、月を見ているとは。

 意外に感じて、いつもの憎まれ口も咄嗟に出てこない。

「そのまままっすぐ来るといい、それなら池にも落ちぬ」

 無言の彼女をどう感じたのか、道を知らせる。
 ここからでは表情もよくわからない。
 水に落ちる気はないので、誘導に従い足を踏みだし、無事義弘の半歩うしろに到着した。
 平素老獪な鬼は、微塵の殺気も身にまとわず、ごくくつろいだ様子に見受けられた。

「ここからならば、梅も月も……どちらも見える」

 そら、と指す大きな手は、自分のそれとはまるで違う。
 つられて顔を上げれば、咲き誇る梅は花びらが淡い燐光を放っているかのように錯覚させた。
 ぼんやりとした輪郭はやわらかく繊細で、時折の微風に芳香を立たせ。
 ひとひら、そしてまた、……と舞い落ちる。
 それに負けじと月の輝きは白く、しるべのような光の筋をつくりあげていた。

「月下での口論は、いくらなんでも不粋、そう思わんか」
「……そうだな」

 すぐさま肯定の言葉が出る。
 それほど、この美しさの前には諍いが無意味に思えた。
 一族の敵ではあるが、今は同じ主に仕える者同士で、武術ではあちらが上で。
 自分の戦法をもっとも的確に汲むのも、この男だと最近気づいた。
 悔しいほど的確な時期に、狙った地点に入る支援、それにより崩れる敵陣。
 これほどの疎通をはかれる相手は、一族の中にも存在しない。
 悔しいほどに、それは大きな爽快感をもたらしてくれる。

 なにか不服を言いたくても、相手に非はなく、たとえるなら子供の駄々にしかなりそうにない。
 それは業腹で、さりとて仇の気持ちがなくなるわけもなく。
 結局平時は小さな口論が絶えない。
 それも最近では名物になり、誰もかれも、目の前の男すらもそれを楽しんでいる気がする。
 どうにか言い負かしたいと挑んでも、結果は全敗を喫している。

 だが今は、春の前というもっとも寒い空気と、月と梅の姿に、心は凪のように穏やかだった。
 もう少しすれば寒さもやわらぎ、やがて桜も咲くだろう。

「はやく暖かくなればいいのに」

 寒さは判断を鋭くさせるが、南方育ちには厳しいものがある。
 思わず漏らすと、男は同意しつつも笑んだ。

「しかしそれは梅が散ること、今を盛りを眼前に言うては哀れではないか」

 幼子めいた言い回しになったことに気づき、薄く頬を染めたが、幸い闇夜にまぎれたのだろう、揶揄されずにすんだ。
 たしかに咲き誇る花の前で言う科白ではない。
 心の中で梅にそっと謝罪した。

「この寒さがなくば、梅は咲かぬ」

 古来から愛されている梅は、桜と並ぶ春の代名詞。
 芽吹くことを祈る歌はいくつも残っている。
 今は花と歌えば桜だが、かつては梅を指したのだとか、歌人に教わったことがある。
 この空気がなければ次の季節がこないと理解はしていても、やはり寒いものは寒い。
 気を散らそうと空を見上げかけ、ふと視線を横にして。

 目が、合った。

「……っ」

 言葉はひとつも意味にならない。
 そして今さら距離が近いと認識し、慌てて離れようと足を動かした。

「お嬢!」

 途端強い声が響き、伸びた腕が身体を引きよせた。
 半歩後ろの地面を踏む予定の右足は、がくんと空虚を踏み、勢いあまって平衡を崩す。
 慌てて手近なものにすがりつき、足を地につけてほっと息をついた。

「後ろは池だと言うたろうに」

 やや呆れた調子だが、反論の余地はない。
 あると思った場所がない時の焦燥は相当なもので、しかも慣れぬ着物であればなおさらのこと。
 ようやく落ちつけば、今度は現状に動悸がいそがしくなった。

 不可抗力とはいえ、まるで男に抱きしめられている形で。
 おまけに安定をとるためだが、自分からその手にすがってもいる。
 つかんだ腕はたくましくて、己の手指ではまわりきらない。
 顔を上げればまた視線が交差するのはわかっていたので、やや下、肩のあたりに目をやり、そっと身を離した。

「……すまなかった」

 殊勝な声で謝れば、軽い笑いが返ってくる。
 小ばかにしたものではなく、年長者らしい保護の意に感じられた。

「せっかく似合うておるしな」

 さらりと誉めそやされ、暫時言葉と表情を失う。
 覚えず顔を見たが、薄闇の中、冗談を口にした様子は些かもない。

「戦装束が似合わんと言うわけではないぞ」

 無言をどうとらえたか、やや早口に。

「あれが一番お嬢らしいが、こういう時くらいは着飾った姿も良い」

 戦場の姿が最もとは、相手によってはとんでもない賛辞だが、男にしては掛値なしのもの。
 それがわかるから、気恥ずかしくて居心地が悪い。
 だが、黙ったままでは今勘違いされたように、気を悪くしているようだし、称賛されて無言も態度がよくない。
 それに、太閤のにやけ顔より、それを牽制しつつ笑うねねより、男の言葉が嬉しかったのは間違いない。
 だから、きっとこの闇ではわからないと嘯いて、薄く微笑んだ。

「……着付けを我慢した甲斐があったな」

 すなおにありがとう、とは出にくく、結局遠回しになった。
 きっと大意は伝わるだろうと想像していると、すっと手が延びて髪にふれた。
 この男にしてはひどく力を抜いた、壊れものを扱うような、そんな感触。
 なにをしていると叫ぶ前に手は離れ、摘んでいるのは花びらひとつ。
 いつのまにかついたそれを払ったのだと知って、確認に手を動かした。

「……そのままでも飾りになったかの」

 余計だったか、と囁く声に、べつにと首をふってみせる。
 頭にやったついでに、先ほどの踏み外しでずれた簪の位置をなおした。
 動くたびしゃらしゃら音を立てるそれは、自分の居場所を教えるようでどうにも慣れない。
 けれどここは戦場ではないし、意匠は橘を模してあり綺麗だと気にいっていた。

 けれどそれより今は。

 近づいた腕に、ひどく真剣な表情に。
 また抱きしめられるのかと緊張したことが恥ずかしくて、彼女は足元をたしかめようと裾をつまむ。

「……私はそろそろもどる」

 上着も用意していないから、流石に寒気を感じてきた。だが、風邪などひいてはいられない。
 踏み石から滑らないようにと気をつけながら、数歩進んでふり返った。

「貴様も、花に冷やされるなよ」

 声をかければ応答に変えて左手があがった。
 それ以上顔を見る必要も感じなかったので、くるりと踵を返して立ちさる。

 完全に姿が見えなくなってから、つと足を止めた。
 今までずっと息を止めていたような、そんな錯覚に支配される。

 先刻抱きしめられたことすら、夢のようで。
 腕に感じた熱が失われれば、現実と知らしめるものがなにもなくなってしまう。
 それがひどく嫌で、少しでも遅らせようと、そっと自分を抱きすくめた。





 > ちゃんとしまぎん……になったんじゃないかなと自己判断。
 > ぎんちゃんが女の子っぽすぎるかもしれませんが(汗
 > 月と花は、なにか狂わせるような、すなおになれるような、
 > 言うつもりもない言葉が出てくるような。
 > 逆に、そうしていいわけをつけているのかもしれませんけれど。
 > 晴着とつながっているような、ないような?(09.03.30)