< 五月待つ…… >


 不意に香った甘酸っぱいにおいに、ふと足を止めた。
 老いてもなお衰えぬ鋭い眼が、その正体を探していく。
 なによりもたしかな香りをたどれば、すぐそれにたどりついた。

 緑に覆われた橘の木が、そこにあった。
 まだ若いのだろう、高さは自分と大差ない。
 あと数年すれば、この身を覆うほどに高くなるに違いない。
 未だ幼い木だが、それでも盛んに葉を茂らせて、太陽の光を受けて輝き、花を咲かせている。
 そして、己に芳香でもって存在を知らしめ、手招いた。
 きっと道行く誰もが、その抗えぬ甘さに足を止め、ここに至ったのだろう。
 足もとの地面だけが踏み固められていた。

 かつて同じ音を持つ彼の邸には、この木が多く植えられていた。
 訪れた回数はさほどないが、記憶にはよく残っている。
 それほど、彼の領主は大人物だった。

 常緑のこの木は、家が末永く続くようにという祈りをこめて、あちこちの邸宅に多く見かけた。
 衰えぬ葉のように、永遠にあれ、と。
 おそらく歴代の当主たちもそう願いながら、徐々に増やしていったのだろう。

 男でも知る古来の歌のように、この薫りは昔のことを思いださせる。
 決して短くはない今までのことが、切れ切れに脳裏に浮かんだ。
 そこには苦いものも、懐かしいと目を細めるものも同じくらいあるようだった。
 しかし、過ぎさったはるかを感傷するなど、この身には似合わないと苦笑する。

 一片の後悔すら、あってはならない。
 それに捕らわれては、己は武器をふるえなくなる。
 心を捨てるわけではないが、戦場に生きるには、普通の人ではいられない。
 そう思ってここまでやってきて、いつしか鬼とも呼ばれるようになった。

 それでも、その名から、香りから、気持ちが溢れて、止められなくて。
 そっと伸ばした指先に、ちいさな痛みがはしった。

 若い橘には、棘がある。
 だから触れる時は気をつけて、と。

 いつか、うっすらと聞いた言葉を思いだして納得した。

 手を離して、節くれ立った指を眺める。
 得物を長く手にしていたため、形はそれに添って歪んでいる。
 どこを見ても今の傷はない、けれどもその痛みは妙に心に残った。

 ふっと唇を歪めて、男は笑う。

 白い花、瑞々しい葉、棘を持つ茎。
 それはまさに彼女のようだ。
 名は体を表すと言うが、あまりにもそのままで。

 であれば木に近づき反撃を受けたように、
 生身の彼女とこれ以上距離を詰めれば、同じような目にあうのだろうか?

「それも一興ではある……がな」

 どちらともつかない笑みを浮かべて、彼はその場を後にした。





 > ふと思いついたので、短めですが。
 > ついでに調べていてもう一つあったので、それもそのうち。
 > 私の中では島津って、わりと勉強しているイメージです。
 > ……事実がどうかはわかりませんが。
 > タイトルの歌は以下。
 > 五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする (よみびとしらず・古今集夏・一三九)