< 風邪 −島津の場合− >
「鬼の撹乱とはまさにこのことだな」
姫若子と呼ばれたこともある彼は、綺麗な顔をやや悪戯げに揺らめかせて寝床を見た。
大きめの衽に半身を起こした男は、苦笑いを返す。
いくつもの戦を切り抜けて、恐れられる歴戦の男。
しかしその表情はいつもの精彩を欠いていた。
戦場では鬼と恐れられる男が、風邪を引いた。
病とはおよそ縁がなく見えるだけに、意外だと皆は言い、代わるがわる見舞いに訪れた。
元気になったら飲めと置かれた酒瓶だの、暇潰しに読めと戦術の書だの。
見舞い品が、この男の周囲からの印象をよく物語っていた。
肩にかけた中綿の入った上着は、ねねからのもの。
普段であれば決して身につけないが、今はありがたかった。
彼女はなにかと世話を焼きたがったが、彼の強固な辞退に最後は諦めた。
しかし布団やらなにやらをこれでもかとさしいれ、簡素だった男の部屋は賑やかになっている。
上着を引き上げながら、やれやれと首をひねる。身体の節々が熱を帯びて軋むようだ。
「大坂は寒くて敵わん」
「確かにな」
彼らの住んでいた南に比べると、この地の寒さは身にこたえる。
もともとここに住むものには平気なのだろうが、雪もしょっちゅう降るくらいだ。
見るにはよいものだが、そのままにしておけば移動も困難になるし、危険もある。
身分の上下なく雪かきに精を出し……結果がこのザマというわけだ。
「鬼も冬将軍と年には勝てないか」
いくら身体を鍛えても、寄る年波には勝ち目がない。
どうしても低くなる抵抗力が、彼を風邪にかけたのだろう。
彼相手にこんな冗談を言えるのは、ごくわずかな者のみ。
大抵は、あとのことを思うと恐ろしくて口にできない。
実際は怒ることもないのだが……
そんな彼を知る数少ない中の一人である元親は、茶化す調子で肩をすくめてみせた。
男は二三度咳をしてから、
「この有様では否定もできんな」
らしくない弱気な感想を述べた。
かすれた声は些か苦しそうで、息苦しいのか、せわしなく胸が上下する。
元親は立ちあがると、襖に手をかけた。
「あまり邪魔をしても治るまい、俺はこのあたりで失礼する」
「おお、見舞いすまんな」
半身を起こした状態で、片手をあげる。
彼も同じように返すと、静かに戸を閉めた。
足音が遠ざかり姿が見えなくなると、再び布団に横たわる。
……だが、しばらくすると、右へ左へと体を転がしだす。
どうにもじっとしていられない。
眠ればいいのだが、酔ってもいないのに昼間から寝入るのはなかなか難しい。
平素であれば鍛錬だなんだと身体を動かしている時間帯だし、
雪を反射していつもより眩しい日差しは、襖を閉めていてもあまり効果がない。
熱も多少あるのだが、怪我で出すものに慣れていれば、我慢できないほどではない。
咳と倦怠感、節々の痛み……いくつもが重なってしまい、伏せているしかないが、
意識は存外明瞭なので、暇なことこの上ない。
枕もとの戦術書でも読めば、眠気がくるだろうかと思ったが、手を伸ばすのが億劫に感じた。
しみじみ病になどかかるものではないと考えていると、耳に足音がとどいた。
いつもであれば気配も察知できるが、今の状態ではそれが誰か判然としない。
戦場であれば死に直結する、己の体たらくに眉をしかめながら、来客ならと身体を起こそうとする。
誰かは部屋の前で足を止め、逡巡しているらしい。
起きているか眠っているか、声をかけるか悩んでいるのだろう。
「起きておる」
左むきになり、肘を床につけて起きあがる準備をしつつ、先に呼びかける。
ゆらりと影が身じろぎして、それからゆっくり戸が開いた。
そこにいたのは己を怨敵と呼ぶ娘。
兜を脱いだだけでもずいぶん印象が変わる、ふとそう思った。
「お嬢も見舞いとは嬉しいことだな」
いつもより自制が効かず、本音と緩い笑みがこぼれる。
それに目をやらなかったのだろう、彼女の様子に変化はなかった。
肘をつけた状態から起きようとする男に、近づいたァ千代は傍らに寄ると無言でその動きを止める。
廊下を歩いてきた証拠に、まとう空気はきんと冷たい。
それを自覚しているからか他の理由か、伸ばされた手がふれることはなかった。
「いいから寝ていろ、病人が無理をするな」
「いくら立花でも、寝込み…は襲わん、…か?」
いつものように軽口を叩いたが、声が詰まってしまった。
調子よく見せようとしたのが明らかになってしまい、咳を抑えるついでに嘆息を手で隠す。
彼女はその様子をちらと眺めたが、無言のまま風が吹かぬようにと戸を閉めて、改めて男の傍らに腰を落とす。
「そういうことだ」
手を伸ばしてもとどくかどうか、そんな微妙な距離。
途切れた科白になにを言うこともないのは、気遣いか適当な言葉が見つからないのか。
距離と言い態度といい、彼女の心の葛藤を表しているのだろう。
ァ千代は、携えていた容器をとん、と枕元に置くと、手近にあった杯を手にとった。
その形を見て、眉をしかめてから息をつく。
「貴様……ぐい飲みを用意してどうする」
盆の上に湯飲みはひとつもなく、猪口だなんだと、酒の杯ばかり。
思わず水差しを確認したが、それは流石にただの水だった。
その様子に思わず笑いが出てしまう。
「いくらなんでも、飲んではおらん。
なにもかも病人用では、気も滅入るので…な」
病は気から、という言葉もある。渋々ながら納得したらしい。
それとも、見舞いにきたのに口論するわけもいかないと考えたのか。
ともかくァ千代は、空いている杯に持ってきた飲物を入れて、隣に容器を置く。
「我が家の薬湯だ、さっさと飲んで治すことだな。
病などに貴様が倒されては困る」
そっけなくしながらも、気遣う様子と目線は誤魔化しようがない。
いつもより揺らいで見えるのは、己の目のせいか、それとも。
「お嬢の家の、か、それは効きそうだな、ありがたくいただこう」
素直に謝辞を述べ、ゆっくりと笑う。
いつもどおりにからかえる自信はないので、無駄なことは言わない。
ァ千代は周囲を見回し、とりあえず他にできることがないとわかると、立ちあがった。
「では、私は行く。
眠りづらいだろうが、きちんと休むことだな。
風邪は万病の元、甘く見ては後に響く」
「……善処しよう」
きつい眼差しで小言を言うと、さっさと出て行ってしまった。
完全にいなくなってから、そっと身体を起こし、入れていった薬湯を飲む。
いくつもの薬草が入っているのだろうが、甘い味も混じっているので、飲みにくくはなかった。
決して簡単につくれるものではないだろうに、惜しげもなく一瓶を置いていった。
「……母親、か」
最後にぽつりと呟いたそれを聞き逃すことはなく。
『母上のように』
彼女の母が早逝したことはうっすら覚えているが、その原因までは知らない。
ァ千代本人も、年齢的に考えて人伝に聞いただけだろう。
しかし、母をはやくに亡くし、父は身体が不自由。
風邪ひとつと侮ることはできないと、身をもって知っているのだろう。
……いや、もしかしたらおそれているのかもしれない。
となれば自分のすることは、さっさと治すことしかない。
そしてまた、平素のように彼女をからかい、戦場では隣に立つ。
その時を思えば、退屈な睡眠も我慢できる気がして、彼はおとなしく目を閉じた。
> あんまり風邪がつらかったので、自棄になって島津も風邪にしました。
> でもしまぎんは外さない、というかそれが目当てです。
> ァ千代の母親のことは調べていないので、想像です。