< 謝辞 >


 数日もすれば、珍しい出会いも些細なものになる。
 それなりに忙しない日常の中にいれば、それも当たり前のことで。
 彼にとって彼女との出会いは、片づけねばならない目の前の雑務に追いやられていた。
 名前すら忘れかけ、変わった目の色も数多の色彩に埋もれ……
 だがそんなある日、書簡をとどけにきた甥の曹丕がこう切り出した。

「甄の女官の中に、情報を盗もうとした者がいたそうだ」

 ついでに休憩すると言って、空いている椅子に腰を落ちつけて、一言。
 彼の言葉に、夏侯惇は渋面をつくった。

 それはある程度予測できたことではある。
 普段ならば身辺のはっきりした者以外は城に入れないが、甄姫づきの者は特例としてたいした調べもなく入城した。
 大体が身元のわかる者であったし、そんな大勢を一度に調べる時間も余裕もなかったからだ。
 もちろん後々には調査予定だったが、その前にわかれば敵方への情報の流出を防げる。
 近くには誰もいないので、彼は周囲を気にする様子もなく話し続ける。
 訊かれたところで困らないのもあるのだろうが。

「なんでも、書庫から借り受けた書簡を重要なものに見せかけ、おびき出したそうだ」
「……なに?」

 書物と聞き、あの時のことを思い出す。
 日数的にも大体合致する。
 彼女が手に持っていたのは、歴史や風土といったもの。
 だが、外見だけではなにかはわからないし、学がなければ内容をたしかめることも難しい。

「甄と側近の女官が考えたそうだ」

 流石だなと満足げな甥に相槌を打ちながらも、彼の意識はべつの場所にあった。
 たしか彼女は、甄姫づきと言っていた。
 見覚えのない娘だったし、道がわからなくなるほどだから、それは恐らく事実だろう。
 そして自分は彼女に、ひとが多くなるが故の問題を呟いてもいる。
 世間話程度のものではあったし、それだけで決めるのは早計だと叱咤する一方、
 その可能性が高いような、もっと言えば奇妙な確信があった。

 だが、所詮ただの憶測。
 勘が間違うこともある。推察するより動くほうが確実と言える。
 そう判断した彼は、仕事が終わると西の宮へ出むいたのだった。

 主が女性であるためか、西の宮はどことなく華やいで見える。
 ゆきとどいた掃除と、回廊の途中にさりげなく置かれた調度品や季節の花が、主人の気遣いを感じさせる。
 彼はその中を、ゆっくりと進んでいた。

 慣れた女官すら畏怖する彼の噂と存在は、勿論西宮でも同じこと。
 噂程度にしか知らなかった彼女らは、はじめて当人を目にし、衝撃を受けたらしい。
 笑いさざめいたいた彼女たちは、隻眼でもまったく衰えない鋭い眼光におののき、声をかけてもこない。
 彼女らは甄姫づきに相応しく、見目もよく、美しい衣を纏い、綺麗に髪を結いあげている者ばかり。
 この間出会った娘は、ここではかなり異質に映るのではないだろうか、そんなことを考える。
 他の者であれば彼女らに視線を飛ばすのかもしれないが、夏侯惇はそんな面々には目もくれず、たった一人を捜す。

「夏侯将軍?」

 弾んだ声は驚きの色。
 覚えのある音の方向へ目をむける。
 霞んでいた記憶に、瞬く間に色がつき鮮明になった錯覚を得た。
 あの日とさして変わらない、地味な色合いの衣装を身にまとい、手には大きな盆を持っている。
 きょとんと彼女は首をかしげ、そのせいで手が危なっかしくなった。
 幸いなにも乗っていないが、もし皿でも乗っていれば盛大な騒ぎになったことだろう。
 彼女は盆を小脇に抱え直すと、深々と礼をした。

「いらっしゃいませ、今姫様をお呼びしますね」

 用があるのか、とは訊かない。
 なにかなければ彼がくることはないと認識しているのだろう。
 しかし蓮葉がきびすを返すと同じほどに、美しい彼女の主人があらわれた。

「いらしたと聞いたので……ご機嫌よう、義叔父上様」

 あんなに怯えていた女官たちだが、その中の誰かが来訪を告げたのだろう。
 それくらいの仕事はしてもらわねば困るところだが。
 にこりと微笑むその姿は、まさに今満開を迎えた真紅の花。
 挨拶をしてから、手元の扇を返し、目を細める。

「我が君になにか……?」

 夫のこととなると目の色の変わる彼女に、違うと答えるかわりに手をふった。
 安堵の顔になった彼女に少し近づく。

「少し話がしたいのだが、かまわんか? そこの蓮葉も一緒に」
「……」

 名指しされた彼女は思わず声をあげそうになり、失礼だと慌てて飲みこんだ。
 そんな様子を視界にとらえながらも、顔はあくまで甄姫のほうを見る。
 彼女は大体を察したようで、嫣然と微笑みを浮かべて手招いた。

「ええ、勿論ですわ。
 ……蓮葉、お茶の用意をしてきて頂戴」
「あ、はいっ」

 ぱたぱたと盆を持って駆けていく後ろ姿を見送ると、彼女は身を翻し、夏侯惇と共に部屋へ入った。
 女官が用意していたのだろう、さして時間もたたずに、蓮葉が部屋へやってきた。
 茶道具を渡し、蓮葉だけは起立したまま、主の後ろに控える。
 甄姫はそれまでに人払いをしており、自ら茶の用意をする。
 前に置かれた茶に手をつける前に、彼は口を開いた。

「下手人を捕らえた礼を言おうと思ってな」

 甄姫は予測がついていたらしく、軽くうなずいてみせた。
 蓮葉はそれを聞いてもまだきょとんとしたまま後ろにいる。
 その表情はあどけないほどで、華やかな姫づきという印象はやはりない。

「内通者を見つけたのは、お前の手柄だろう?」

 隻眼はまっすぐに蓮葉のほうをむいている。
 ようやく自分が呼ばれた理由を察した彼女は、盆を持ったまま急いで首をふった。
 そのためかちゃかちゃと音が響き、また慌てふためいて手を止める。

「いえあの、実行なさったのは姫様です」

 そう言われても、彼の視線は動かない。
 きついほどの眼差しだが、彼女はひるむこともなく言葉を続けた。

「私はただ、あの時の夏侯将軍の言葉をお伝えしただけです。
 もしこの西宮にそういった者がいるのなら、姫様はなんとかしようと思われると考えて」
「……ええ、ですからその話を聞いて、彼女の持っている書物を利用することにしたのです。
 中身を城の見取り図だと嘘をついて、目立つ机に置き去りにして」

 蓮葉の説明に、甄姫がなめらかにつけ加える。
 綺麗に紅をひいた唇が、くすりと笑った。

「こうも簡単にひっかかるとは思いませんでしたわ。
 他にもいるかもしれませんが、この一件で抑止効果も出るでしょう」

 そう易々と情報は得られないと、思わせるだけでも上々だ。
 あとは今後の調査で尻尾を掴めばいい。
 優雅な手つきでお茶を飲んだ甄姫は、笑みを浮かべたまま彼女の部下を見る。

「身内の膿はこちらで処理せねば、我が君のご迷惑となりますもの。
 だから、蓮葉には私も感謝しているわ」
「……でも、具体的な方法を考えたのは姫様ですから、私の手柄ではありませんよ」

 困った顔でなんとか言い返すが、そうだったかしらと優雅に扇をひとふりされてしまう。
 どこからどう見ても素直そうな娘だが、頭の回転はいいのだろう。
 こういった言葉遊びは苦手のようだが、美辞麗句を飾ったり、面とむかってものが言えないよりは断然好感が持てる。

「……まあ、お前がそう言うならそれで良いが。
 とにかく助かった」

 軽く頭をさげると、さらに狼狽してぱたばた手をふる。
 目上のものから礼を言われるなど滅多にないことだからだろう、恐縮しきりといったところか。

「いえそんな……っ」

 そういった態度を見ても、つくづくここにいることが不思議に思える。
 だが、逆にそれがいいのかもしれないと感じた。
 裏表、虚実入り乱れる世界の中、こうした存在は貴重なものだ。

「……用件はそれだけだ。邪魔をしたな」

 残りのお茶を飲みほすと、席を立つ。
 そろそろ甥が帰るころだろうから、あまり長居をするのも気が引ける。
 なにより、こういった女性ばかりの場所はどうも居心地が悪い。

「またいつでもお越しください」

 魅力のある笑みを惜しげもなく浮かべる姫に手をふっていらえにすると、困惑顔の蓮葉を見下ろした。

「ではな」
「あ……はい、ええと、少しでも将軍のお手間が減らせたならなによりです」

 戸惑いながらも紡がれた科白に、わずかに唇が弛む。
 自分なりにできることをしようという態度は、彼の好むところだ。


 そんな具合に、二度目の出会いは幕を閉じた。





 > ということで遅くなりましたが続きです。
 > でもやっぱり亀の歩みですね……
 > こういう、天然娘は好きです、狙ってない感じの。