< 名前を >


 成都城内、執務室では、劉備と諸葛亮が、山積みの仕事を片づけていた。
 陥落させたはいいが、整備することは山とある。
 他の者にも執務室を割りあて、彼らにも頼んでいるのだが、大事な部分は自分で見たいと劉備が言ったため、王の仕事は誰よりも多い。
 そんなひととなりに心動かされた諸葛亮であるから、文句も言わず、水魚の二人は今日も書簡と格闘していく。

 あっというまに昼時になり、休憩しようと思ったちょうどのタイミングで、執務室の戸が開かれた。
 いらえを待たずに開けるものはそうそういない。

「兄者、メシにしようぜ!」

 大声と共にやってきたのは、劉備の義弟、張飛だった。
 水魚とたとえた諸葛亮に、弟として若干のジェラシーを感じているらしい彼は、よく訪ねてくる。
 政務はからっきしで軍務のほうを仕切っているので、その申しわけなさも多少はあるようだ。

 女官が続いてやってきて、彼らに食事を供していく。
 張飛のおかげで食事は賑やかなものになった。
 とは言えその間にも、訓練中のことや、磨けば光りそうな兵のことなど、仕事めいたものが入ってしまう。
 それでも書簡に埋もれているよりは、張飛の身振り手振りを交えた報告は楽しいもので、劉備にも笑みがこぼれた。

「お、やっと笑ったな」

 その笑顔を見逃さず、張飛が笑った。
 不思議そうな義兄に、食後のお茶をすする。

「なんかあったのか? 難しい顔してるぜ」

 指摘にあからさまに慌てた顔をする。図星だったらしい。
 ふと諸葛亮のほうを見れば、やはり気遣わしげな顔をしている。
 朝からどうも気落ちというか、考えこんでいる様子は見られた。
 ただ、政務に関することならば、最終的には自分に言ってくるだろうし、そうでないごく個人的なことなら、無理強いもと思って遠慮していたのだ。
 しかし、プライベートなことでは聞きづらいとか、そういう配慮は張飛にはあまりない。
 心配していたのは諸葛亮も同じなので、彼の質問は渡りに船だった。

「……いや、たいしたことでは」

 二人から無言の催促を受け、困惑した顔でそう言うが、納得するわけもない。

「兄者がそれだけ悩んでるってことは、たいしたことだぜ」

 いい発言に、諸葛亮も大きくうなずく。
 たとえ他方にとっては些細な、それこそ今日が雨だった、という程度でも、彼がこれだけ悩んでいるからには、それは大事なのだ。
 勿論仕事に支障をきたす真似はしないだろう。
 だが、それでもなにかと気苦労の絶えない状況だからこそ、悩みの種はとりのぞいておきたい。

 引き下がる気は微塵もない義弟と軍師に、劉備は降参したようにため息をひとつ。

「……その、尚香が」

 やがて出たのは、彼の妻の名前。
 孫呉から輿入れしてきた、年若い彼女。
 政略の色合いが濃いが、相性がよかったようで、仲睦まじくしている。

「なにかあったのか?」

 意外そうな声になるのも無理からぬところだ。
 よく二人で共にいるところを見るが、その様子は終始和やかで、問題があるとは思えない。
 喧嘩でもしたのかと顔を覗きこむ張飛に、小さな声で報告する。

「……未だに、呼び方が」
「呼び方?」

 なんだそりゃ、と首をかしげる張飛に、ああ、とうなずく諸葛亮。
 意味がわからない様子の彼に、そっと補足した。

「尚香殿は、未だに殿を様づけをしていると……そう仰りたいのですね?」

 確認すると、そうなのだ、と肯定される。
 そこでようやく張飛は手を打ち、なるほど! と叫んだ。

 劉備と尚香には、かなりの年齢の開きがある。
 彼女の父のほうが、年が近いほどで。
 まして今は一国の主、いくら夫でも様づけをするのはわからないではない。

 ……だが、気持ちの上では納得していても、やはりなんとなく落ちつかない。
 しかし、自分から言えば、それはどことなく命令のようになるのではないか。
 そう思うとなかなか言いだせない。

 そんなことをぽつぽつと告げた劉備に、諸葛亮は無意識にいちいちうなずいた。
 彼もまた妻に様づけで呼ばれている。
 一国の軍師という身分ではあるが、劉備らほどの年の差もないし、連れ添ってもう数年になる。
 釈然としないものを感じているのは、彼のほうもなのだろう。
 微妙に暗くなる二人を、張飛は豪快に笑い飛ばした。

「なんだよそんなことか! 要するに呼び捨てしてくれって言えばいいんだろう?」

 簡単じゃねーか、とあっけらかんとする義弟に、劉備はすわった目をむける。

「そう簡単にいくならば、悩んではいない」
「……そうです」

 反論する劉備と、それを支持する諸葛亮。
 ただ口頭で頼んだだけでは、きっと辞退されてしまう。
 奇妙なまでの確信がそこにはあった。

 しかし、二人から文句をつけられても、張飛は相変わらずの笑顔だった。
 ……いや、先程に比べて少しその性質が変わっていた。
 張飛は二人の肩を抱き、内緒話をするように声を潜める。

「だったら夜に頼みゃいい。簡単だぜ?」

 ……執務室を沈黙が支配した。

 勿論この場合の夜に、とは、単に夜頼む、というだけではなくて。
 意味を察した二人は顔を見合わせて黙りこんでしまう。

 そこに、ちょうどよくなのか悪くなのか、女官の声が響いた。

「張将軍、関将軍がお呼びですが……」
「いけねぇ、そんな時間か!
 じゃあな、お二人さん、うまくやれよ!」

 ばんばん! と二人の背を叩くと、返事も聞かずに立ち去ってしまった。
 残された者はお互いを探るように見つめたあと……

 無言で執務を再開したのだった。



 そして翌日。
 執務を終えたころ、張飛がやってきた。
 帰り支度をしていた二人に、にやけた笑みで戦果を聞く。

「どうだった?」

 だが、劉備は実直な顔を少し染めるだけでなにも言わない。
 諸葛亮のほうもいつもどおりの顔で、なんの返事もしなかった。
 張飛はあからさまに落胆し、がりがりと頭をかいた。

「……なんだよ、二人とも。
 じゃあいいや、ジャマしたな」

 つまらなそうに呟いて、さっさと退去してしまった。
 関羽あたりを捕まえて、酒のネタにするのかもしれない。
 やれやれ、と苦笑いをむける主に、諸葛亮は扇で表情を隠したまま、ぽつりと呟いた。

「……価値はありますよ」

 低い囁きに劉備が聞き返そうとした時には、水魚の交わりと評した彼の軍師は、すでに部屋を出ていた。





 > 一部史実ベースなので、孔明と月英の年齢差が大きいです。
 > 実際は十歳近くでしたっけ……? うろ覚えですが。
 > 夜の部分は別ページにします……長くなりますしアレですから。
 > うっかりデータを消してしまって突貫書き直し……こっちのほうが気にいったかも。
 > ブラウザバックでお願いします。