− ATGC −

※未完、下書き、シリアスです※


 早朝の聖地を、いつものように走っていた。
 ジョギングの速度じゃないといわしめたけれど、これくらいは己にとって普通のことだ。
 それでも、周辺に気を配ることは忘れない。
 足もとに地雷は埋まっていないし、銃弾が飛んでくることもないと理解していても、安穏と景色を楽しむなんて無理な話だ。
 ──と、視界の隅になにかがひっかかった。
 ゆっくりと速度を落としてから、気になった場所へもどって確認する。
 そこには、踏みつけられた野花があった。
 子供が入りこんで遊んだのか、大きめの動物が通ったのか。
 しかしよく見れば、足あとからして大人のものなので、酔っ払いかもしれない。
 いずれにせよ、このままでは早晩、枯れてしまうだろう。

 今までの自分なら、目に違和感として入ってきても、危険はないとすぐさま思考から排除した。
 ましてや、足まで止めて確認するなんてこともない。
 だが今は、その花の色が淡いピンクとオレンジ色だったから、素通りできなかったのだ。
 女王候補のひとりと同じ髪の色、もし彼女がこの状態を見たら、きっと立ちどまるだろう──そう考えたから。
 女王試験がはじまり、彼女と出会ってから、どうにも己はおかしい。
 以前なら頓着しなかった部分に留意するようになっている。
 無駄と捨てられもしないのだから、不思議でしかない。
 だから、花自体は踏まれていないからと、持ち歩いている小型ナイフで折れた茎の上を切った。
 近くの川で軽く流せば、踏みつけられた跡は残らずにすんで、まあまあ綺麗な状態だ。
 ……とはいえ、これをどうしたものか。
 自室も執務室にも飾るのは、と考えながらも、素直な足は迷うことなく進んでいった。
 ほどなく見えてきたのは、女王候補が住まう寮。
 しかし、ここではたと現在時刻に思い至った。
 女性の部屋を訪れるには、まだ非常識な時間帯だ。
 かといって、出直す際にこれを持っていくというのも考えものだ。
 どうせ持って行くなら、きちんとした花束のほうがいいに決まっている。
 彼女はきっと、こんな花なんてとは言わないけれど、でも──
 我に返って、やっぱり帰ろうとしたその時、正面玄関ではなく、横から気配がした。
 慌ててそちらへ小走りに行き、角を曲がれば、

「ヴァージル?」
「……アンジュ」

 視線の先にいたのは、まさに考えていた人物で。
 部屋着なのだろうか、ゆったりしたシルエットの大きめのシャツとボトム姿だった。

「こんな朝早くに、どうしたんですか」

 慣れない暮らしで眠れていないのかと心配になり、口早に問いかければ、小さく笑う。

「それ、ヴァージルもじゃないですか」
「俺は毎日のジョギングです」

 だから問題ないと言外に含めると、服装から察したのだろう。
 なるほど、とひとつうなずいて、なら似たようなものです、と続く。

「私も恒例のラジオ体操です」
「ラジオ……なんですって?」

 単語自体はわかるが、なぜそのふたつが組みあわさるのか。
 怪訝な表情をしていたからだろう、簡単に説明してくれた。
 いわく、準備運動代わりに、音楽に合わせて決まったものをするらしい。
 公共の電波で、ほぼ同じ時間に流していたというから、まるで軍隊のようだと思ったが、とりあえず黙っておく。
 起き抜けにやるとスッキリするからと、ここへきても習慣にしているらしい。
 運動自体はいいことだし、だから緩んだかわいい格好なのだろう。
 よく見れば動いたあとらしく、頬は薄く赤らんでいる。
 最初に気づかなかったあたり、彼女に対してはどうも鈍い自覚がある。
 なぜだろう、と考えこんでいた己に、ところで、とアンジュが躊躇いがちに声をかける。

「その花は、どうしたんですか?」

 そういえば手に持ったままだった。
 今度はヴァージルが、ことの顛末を話すことになる。
 踏みつけられた状態で発見し、切ったはいいが、その後に困っていると正直に。
 アンジュを思い出して、という部分は省いたのは、流石に恥ずかしかったからだ。

「俺の部屋に花瓶はありませんし、といって、わざわざ用意するのもですし」

 言えばすぐさま運ばれてくるだろうが、たかが数本の野花だ。
 ご大層な花瓶では大きすぎるし、置いても邪魔でしかたがない。
 執務室にでも置こうものなら、他の連中になんと揶揄されるか。
 ……彼女がこれを見にきてくれるなら、置いておくのもいいかもしれないけれど。
 困惑しているのが伝わったのだろう、アンジュはそれなら、と手を叩いた。

「そのお花、もらってもいいですか?」
「構いませんが……」

 無邪気に手をさしだされて、少し躊躇ってしまう。
 たしかに己は、彼女なら野花でも大切にすると想像した。
 だが、思うのと実際の行動は必ずしも同一ではない。

「かわいいですし、飾るのにちょうどいいものに心当たりがあるんです」

 だから無駄になりませんよ、と続けられれば、断るのも気が引ける。
 リボンも巻いていないそのままを渡すのは、少しばかり憚られるのだが、気の利いたものを持っているわけでもなく。

「なら……どうぞ」
「ありがとうございます!」

 唯一持ち歩いていた手布にくるんだ簡素な状態だというのに、彼女は弾けるような笑顔で礼を言う。
 大切そうに両手で持ってくれる姿は、なんだかじわりと胸にきた。
 どんなふうに飾るのは興味はあったが、お互い私服で、朝食もまだ。
 おまけに、アンジュは化粧もしていない。
 本人はあまり気にしていないようだが、このまま部屋を訪れるのは流石に非常識だ。
 ひとまずは挨拶をし、おのおのの部屋へもどることにした。
 あまり長居をしていては、あの奇妙な執事もやってきてしまうし。
 別にやましいことはないのだが、見る者が見ればおかしな光景だ。
 そこから彼女への批判があってはたまらない。
 だからヴァージルは人目につかない道を選んで、みずからの私邸へ帰って行った。

 平素よりやや遅い時間だったが、男の身支度などそう時間はかからない。
 朝食だって、凝ったものを食べるわけではないから短いものだ。
 いつも聖殿へ赴くのと変わらぬ時間に邸を出て、けれどむかった先は早朝と同じ、女王候補の寮だ。
 彼女がどんなふうに花を飾ったのか、知りたいと思った。
 いいわけというか手土産代わりに、フェリクスが置いていった綺麗なリボンも手に持って。
 すでに出かけていないか不安だだったが、笑顔を貼った執事は在室だと案内してくれた。

「おはようございます、アンジュ」

 まるで今日はじめて会ったような挨拶に、彼女のほうもにっこり笑って返してくる。
 どうぞと部屋へ誘われて、扉が閉まって気配が遠のいたことを確認する。

「どうです?」

 ほら、と手招きされたのは、日がよくさす窓辺。
 そこに、朝アンジュに渡した花が生けられていた。
 茶色の小さな瓶は、あつらえたようにぴったりに見える。
 なにも書かれていない落ちついた色のラベルと、古い切手をアクセントに貼りつけてある。
 少し曲がっているところからして、もともとのものではなく、あとから手を加えたのだろう。

「よければ、これを」

 それならちょうどいい、とリボンをさしだすと、心得た彼女は瓶の喉もとに結びつける。
 濃淡のある紫のグラデーションだが、主張すぎることもなく、しっくり合ってくれた。

「いい花瓶を持っていたんですね」

 だから快く花を受けとってくれたのだろう。
 しみじみヴァージルが呟くと、あー……と呟きながら視線が彷徨った。
 どこか居心地の悪そうな表情に、おかしなことを言ったかと考えてしまう。
 見つめていると、観念したのかちょっと待ってください、と壁際へ歩いて行く。
 扉の開閉音とともに手にしたのは──

「……同じ瓶?」

 窓辺のものと同じ茶色の小瓶だった。
 異なるのは、中央あたりに小さなシールが貼ってあることくらいか。
 そこには、笑顔で帽子をかぶった、奇妙なキャラクターの顔が描かれている。
 一筆書きのような感じだが、どこか見覚えのある顔は、まさか。

「サイラスですか、これ」
「そうです、よくわかりましたね」

 半ば当てずっぽうだったのだが、正解してしまった。
 素直な感想としては、あまり嬉しくないのだけど。
 王立研究員が、なにかと多忙な女王候補のためにエナジードリンクを用意していることは知っている。
 だが、それとは少し異なるように見えた。

「故郷にいたころの習慣なんです」

 毎日忙しく働いていた当時、一人暮らしということもあり、食事はわりと適当だった。
 そうなると、どうしても栄養が不足したり、疲労感が抜けなかったりしてしまう。
 きちんと生活を見直すべきだとわかっていても、手間を惜しんで、こういう栄養ドリンクに頼っていた。
 効果の大きいものは当然、高額なので、ドラッグストアの安売りをチェックしまとめて買っていたという。

「プラシーボ効果みたいなのもあると思うんですけど」

 朝起きてラジオ体操をこなし、湯上がりの牛乳よろしく……というアンジュの言葉は意味不明だったが、とにかく朝のルーチンワークだったわけだ。
 女王試験がはじまって、なにもかも違う場所での生活になったが、だからこそ、朝のルーチンだけは守りたかった。
 朝食を用意しているのはサイラスなので、ダメ元で聞いてみたところ、これを渡されたのだという。

「毎日飲んでも大丈夫だそうです」

 成分表は書かれていないが、王立研究院がつくったものなら問題はないだろう。
 実際、飲み続けているアンジュも違和感はないというし。
 ヴァージルとしては、正直あの執事謹製の薬は遠慮したいところだが。
 効能はごく控えめにして、彼女のやる気を出させるようにしている、といったところか。
 女王試験を円滑に進めるためなら、この程度の配慮がなされるのも当然だろう。
 宇宙の危機を救うためなら、貴重な生薬の使用も些末なことだ。
 べつに瓶に入れなくとも、コップで渡せばいい話だが、サイラスは気を利かせて、かつてと同じような瓶に入れてくれている。
 瓶自体は仕入れているというので、基本的には返しているのだが、何本かはこうしてリメイクしてあるらしい。
 ここに、と示された棚を見れば、なるほど、サイラスのシールを隠すためのラベルもいくつか種類がある。
 紐を巻きつけてあるものや、壁から下げられるようにしてあるものなどが見受けられた。
 ドライフラワーを入れたり、消臭効果のある素材を入れたりしているらしい。
 素人の手作業ではあるが、なかなかセンスのいいものばかりだ。

「小さいので時間もかからないし、気分転換にちょうどよくて」
「いいことだと思いますよ」

 照れくさそうに笑うが、慣れない女王試験だ、息抜きは必要だろう。
 やり遂げたという感触は、つまづきがちな今には大切なものだし。
 正直に告げれば、もっと恥ずかしそうに頬を染めた。

「折角ですし、ヴァージルもつくってみませんか?」

 照れ隠しなのか、まだまだ空き瓶はありますし、と横の箱を開けてみせる。
 中には加工していない瓶と、材料になりそうなものがきちんと分類されていた。
 なにかの折に集めたものを整頓するのも、きっと心の安定に繋がっているに違いない。
 束ねられたドライフラワーも丁寧で、彼女のひととなりがよくわかる。
 いつもの己なら、興味がないですとさらりと告げただろうけれど。

「……ひとつだけなら、やってみます」

 驚くほどすなおに、その言葉は滑り出た。
 我ながら信じられなかったが、やった、と無邪気に喜んで道具を用意する姿を見ると、まあ、たまにはいいかと思ってしまう。
 朝食に関するやりとりに、微かな違和感があったことは、己の変化の前に霞んでしまった。



 女王試験という日常に慣れてきたが、今日いるのは聖殿は聖殿でも、もともとの──聖地のほう。
 飛空都市でも同じことができるとはいえ、やはり聖地からのほうが適している場合も多く、今日はヴァージルがここから力を送ることになっていた。
 ……最も、女王不在の現状では、どこからなにをしたって、焼け石になんとやらだ。
 けれど、王立研究院が総出で、最悪な中でも効率のいい時間を計算してくれたのだから、無碍にはできない。
 いつものように、あまり手応えない感触に苦笑いをこぼしたのだが、ふと、気配を感じた。

「……?」

 だが、ここには誰もいない。
 習い性で確認もしたし、そもそも隠れる場所は多くない。
 敵意のあるものではないので、サクリアの異常だろうと検討づけた。
 ──のだが、そこで違和感に気づく。
 先ほどまで滞っていたサクリアが、どこにも残っていない。
 宇宙全体からすれば誤差だとしても、女王が欠けてから久しく感じなかったスムーズさだ。
 おかしな気配があってから、明らかに変化した。
 王立研究院の結果を見るまでもない、みずからのサクリアを読み違えはしない。
 扉の外に他の守護聖がいたのかもしれないが、外を見回しても誰もいない。
 考えてもわからないと判断したヴァージルは、すっぱり推察をやめた。
 無駄な時間をすごすだけだし、もとより、ここまで侵入できる者もいないのだ。
 よくわからないがラッキーだったと思っておいて、あとは専門家に任せるべきだ。
 そんなことより、はやく飛空都市にもどりたかった。
 己の不在を知らずに執務室を訪ねてきて、がっかりしてはいないだろうか。
 今はそこまで風が足りない状態ではないが、もうじき臨界を迎えようとしているようだし。

 慌ててもどり、来訪者がなかったか確認したが、幸い、アンジュはこなかったらしい。
 それはそれで残念だと感じてしまう自分の心の置き所は、まだ見つけられていない。
 今後は事前に伝えておくか、しかし、まだ候補の彼女らには、詳細を告げるべきではないという意見もある。
 一緒に育成データを見ようと声をかけて、さりげなく今後の計画を聞くというのはどうだろうか。
 あれこれ悩んでみるものの、まずは目の前の報告書からだと、手を伸ばした。

 翌日。
 事務仕事にけりをつけたころ、ノックの音が響いた。
 入室を許可すれば、顔を覗かせたのはアンジュで。
 覚えず椅子から立ち上がり、出迎えに行ってしまう。

「こんにちは、ヴァージル、少しいいですか?」
「こんにちは、ええ、構いませんよ。育成ですか?」

 問いかけると、いいえ、と首をふる。
 最重要で求められている力を送ってもらう算段をつけたあと、ここへやってきたらしい。
 それならとソファを勧めると、お邪魔しますとちょこんと腰かけた。

「実は、ヴァージルの夢を見たんです」

 なので顔を見にきました、とてらいなく言われて、胸がどんと跳ねた。
 聞こえたのではないかと疑うほどだったが、アンジュは気にした様子もない。

「凄く綺麗な場所で、サクリアを送っていたみたいでした。でも、なんだかうまくいってないみたいで……」

 しかし続いた言葉に、赤面する暇も失われる。
 彼女はたしかに夢と言ったが、言葉にされた光景は、つい先日のことだ。

「頑張れって応援して、そこで目が覚めたんですけど」
「……そう……ですか」

 まさか、あの時の気配は。
 問いかけたいが、アンジュは現実と思っていない。
 その状態で訊ねても、混乱させるだけだろう。
 力はまだまだ少ないが、彼女にも女王のサクリアは存在する。
 その力が作用した可能性はあるだろう。
 だが、自由には扱えていない。
 ここで余計な情報を与えては、大きすぎる力の前に負けてしまうかもしれない。
 ──それは、困る。

「あなたに応援してもらえれば、いつも以上に力が出せると思いますよ」

 だから、慎重に言葉を選んでいく。
 嘘はつきたくないので、本当のことを、けれど核心は突かずに。

「ですが、夢の中でまで試験を続けては、疲れもとれません。休む時はちゃんと休んでくださいね」

 無意識下の行動であるなら、忠告しても意味はないかもしれない。
 それでも、留意するとしないでは大違いだ。
 すなおにはい、とうなずく姿に微笑みを返しながら、弾む胸の理由がいくつもあることに、察知できないままだった。


「──ありがとうございます」

 渡された資料に礼を言うと、馴染みの研究員がいえ、と微笑み返す。
 そういえば、とふと気づいた。
 彼は女王試験がはじまる前からいたけれど、大半の者は、試験の前に入れかわっている。
 なにせ当時は大騒ぎで、特に王立研究院は、各地の状況の確認、打てそうな手の模索と、不眠不休の忙しさだった。
 当時の主要なメンバーが、軒並みいなくなったのも、さもありなんというところだろう。
 彼らはその時はまだ入りたてで、言葉は悪いが雑用ばかりだったから、今も元気にしているけれど。
 ……ただまあ、女王候補も慣れていないのだし、古参ばかりよりは接しやすいだろう。
 サイラスはあちらの宇宙の研究員だったから、運用自体は手慣れていて、問題も出ていない。
 実際、この資料だってなんら欠けていないのだから。

 デバイスを手にして研究院を出ると、ヴァージルは敢えて横道を選んだ。
 あとは帰宅するだけなので、回り道をしようと思ったのだ。
 侵入者はないとわかっていても、定期的にルートのチェックをしないと落ちつかないのだ。
 職業病……元、とつけるべきだが、こればかりはしかたがない。
 それに、ありがたくないことに、時折歪みが生じていることもある。
 大きなものではないので、巻きこまれて被害が出る前に対処されるが、検知される前に見つけられれば、それにこしたことはない。
 正義感というよりは任務のような心持ちだが、結果的に飛空都市に暮らす人々と──アンジュが安全になるなら、見回りくらいいくらでもだ。
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